ぼくには、「ワタル」という名前の友達がいた。
渉は本名。
渉と僕は直接の友達ではない。
間に一人共通の友達がいる。
その共通の友達が僕と大学の同級生であった。
渉はそのときもう社会人として立派に働いていた。
渉とは、僕が大学2年生のときにはじめて出会った。
出会った場所は、パチンコ屋でモーニングで開店待ちをしているときだった。
僕はギャンブルなどしたこともなく、その日はじめて友達に誘われてモーニングに並んだ。
今の若い人はこの「モーニング」って分からないですよね?
朝っていう意味の「モーニング」ではないのです。
パチスロ?業界の言葉?になるはずです。
気になったらググッて下さい。
その次のとその次の日、計3日続けて渉とモーニングで会った。
そのときは、あまりしゃべりもせずただ、共通の友達からお互い紹介されてはじめましてみたいな感じであった。
それから時は進んで、2年後、結婚して赤ちゃんがいる渉と再会した。
奥さんとも仲良くなり、共通の友達がいなくても、渉の家族(奥さんと子供)と一緒に海水浴に行って、夜は渉の自宅でBBQやったりしました。
今思えば、超人見知りの僕がよくそんなことできたもんだと思います。
それからは、僕の大学の親友たちの仲間内に渉が一緒にいるのが当たり前になりました。
それは僕が大学を卒業してからもずっと続きます。
僕は大学を卒業しても研究室の教授と年に最低3回は飲んでいました。もちろん、大学の親友たちも一緒に。そしてその中に当然のように渉もいて、研究室の教授とも仲良くなってしまいました。
大学卒業後、僕は就職して東京へ行ってしまったので、渉と会うのは年に3回~5回位。
でも、渉との交友はずっと続きました。
僕が結婚して地元に帰った後は、以前にもまして渉と話す機会が増えました。
渉は営業の仕事をしていました。
営業の仕事とはまったく関係ありませんが、渉は霊感が強く、よく憑かれていました(笑)
すみません^^; ここは笑うところではありません。
夜中、外でとりとめのない話しを何時間もしたりした青春時代...突然、渉がばたっと倒れて意識がないみたいな感じなる事が何度もありましたっけ。
最初はびっくりして心臓が止まりそうになったけど、そのうち慣れてまたかって感じでした。
人間は慣れる動物。
そんな渉は営業に回っているときに、僕が地元で仕事場にしていたマンションの1室によく顔を出してくれました。
そこでもいろんな話しをしました。
渉とはよく、一緒に何か事業がしたいなって話しをしました。
仕事とか一つじゃ何も生活は変わらない。
二つ、三つ。
つまり、キャッシュポイントを複数持ちたいって話しを二人で何時間も話したものです。
そしていつか一緒に仕事がやりたいねって。
渉は35歳の夏、急性リンパ性白血病で半年の闘病生活の甲斐もなくこの世を去りました。
その頃、渉はCADを一生懸命勉強していました。
転職した会社でCADをやることになったからです。
仕事も多く、残業ばっかり、いつもきついきついと言っていましたが、新しいことをやってるということで充実感も強く、楽しそうでした。
しかし、あまりにもきついのが続くので、思い余って病院に行ったそうです。
そしたら、大きな大学病院で一度見てもらったほうがいいと言われてその日のうちに紹介状を持って、僕が通っていた大学の附属病院に検査に行きました。
次の日、渉と共通の友達から電話がありました。
「渉が入院せないかんようになったらしい」と。
「どうしたと?」と僕が尋ねると、その友達は自分からは言えないので渉に直接聞いてと。
速攻で渉に電話して聞きました。
渉は「急性リンパ性白血病で入院することになった」と言って、続けて「昨日、病院で聞いて近くの本屋で調べたら、抗がん剤治療とか骨髄移植とか方法はあるし、生存率も30%あるらしい。」と説明してくれました。
僕は、渉が何を言っているのかよく分からず、白血病という言葉に小梅を想像していました。
そして...30%? 生存率が30%?
たった30%?残りの70%は死ぬかもしれんってこと?と。
でも渉は明るく30%あるって。
僕も30%あるし、大丈夫って。その時はそう思うようにしました。
少しの間があって、渉は「明日から入院せんと行かんけど、なんかいややねー」と。
ほんとは怖いのを強がってるように思え、僕は「明日は何時に病院行くことになっとうと?」と聞きました。
渉は「夕方4時くらいから入院することになった。」と言ったので、「じゃぁ朝からそっち行くけん」った言って電話を切りました。
次の日、渉が病院に行くまでの数時間、僕と渉と共通の友達の3人で行くあてもなくぶらぶら車を走らせて、古本屋で漫画を買ってみたり、ちょっとご飯を食べたり、よく遊びに行った場所に行ってみたりと変な時間の潰し方をしました。
そして渉を病院まで送り届け、僕と友達は帰りました。
それから渉の闘病生活が始まりました。
抗がん剤の治療が始まり、みるみる髪の毛がなくなり、顔は別人のように腫れ上がり、もの凄くきつそうにしてまったく話しができないときもありました。
4ヶ月が経った頃、骨髄移植ができるという連絡を受けました。
7つの項目のうち6つの項目がマッチしたドナーが見つかったそうです。
そして骨髄移植。
何もかもうまくいっていると思っていました。
本人もそう思っていたでしょうし、僕も仲間もみんなそう思っていました。
渉がこの世を去った2005年は僕らが35歳の年。僕が転職をした年。地元を一旦離れ東京で仕事をしていた年。
お盆休みを地元で過ごし、東京へ戻った次の日、友達から電話がありました。
出勤して席に着いたとたんに鳴った電話を見て、僕はもしやと思いました。
...思ったとおり、渉が息をひきとったという連絡でした。
渉は僕が東京へ戻る数日前から様態が悪くなり、集中治療室に入っていました。
東京に帰る前の日に病院に行き、ガラスの窓越しに渉の姿を確認し、声もかけられないまま帰ったのを今更ながら後悔しました。
そのまま、会社を休ませてもらい、地元にとんぼ返り。
夜、空港に着いた僕を友達が迎えに来てくれていました。
そしてそのまま渉が眠る斎場に。
涙も何も出ませんでした。
ほんとに渉は白血病だったのか?
ほんとは元気だったのに、抗がん剤治療をさせられたせいでこんなにも弱って、そしてまったくそんな必要ないのに骨髄移植をされて、拒絶反応で殺されたんじゃないのか?
だって、あんなに元気だったのに。
僕はそんな風に思っていました。
渉がまだ集中治療室に入っていなかったとき、ちょうどそのとき、僕は地元の企業から書類選考合格の連絡を受けていました。
すぐにそのことを渉に連絡して相談してみました。
渉は自分のことのように
「面接受けた方がぜったいいいって。地元やし。そこ受かりー」
こんなメールを返信してくれました。
それが渉との最後のやりとりになるとは、その時はまったく考えもしませんでした。
僕は渉のその言葉通り、その会社に就職しました。
そして、そこで僕の人生に大きく関わることになるW氏と出会うことができました。
僕にとってはフツーではない波乱に跳んだ人生に渉がW氏を引き合わせてくれたのかもしれません。
一緒に仕事ができんくなってごめんねって。
その代わり、凄い人紹介するよって。